白狼伝説

エピソード一覧


本編


 彼女の名はルイーズと言った。他の少女たちが花や蝶と戯れている中、ルイーズは男と共に獣への憧れを抱いていた。おてんばと称された彼女は少なくとも村の子供の中で一番山を走るのが速かった。服はいつもホコリにまみれ顔にすら泥を付けている始末。そんな彼女を見て母は優しく諭すように女の子なのだからと彼女の頬を拭っていた。

 まだ人が獣への尊敬の念を忘れず、獣と共に食うか食われるかの争いをしていたそんな時代。少なくとも彼らにとっては。

 ルイーズは村一番の美女になるほどの容姿を持っていた。本来同年の友人たちと花を嗜んでいれば、村の少年たちの話題の的になったであろうが、ルイーズはその性格上、男の子との喧嘩も絶えなかった。
 幼いながらも男に力では勝てないと知っていた彼女は拳を握らず、人に遺された武器を使う。鋭牙に鉤爪。そんな武器らしいものではなく、退化した歯と爪で。しかしそれでも子供である少年たちを追い払うには充分であった。
 猿のように引っ掻き、犬のように噛み付く彼女は、その凄まじい勢いからその二種類ではない動物に例えられ、恐れられていた。恐れられたといっても子供の怖いという程度なんてたかが知れているが。
 しかしその力で少年たちの頂点に立っていたのも事実であり、彼女は畏怖の念を込め、山の覇者狼に例えられた。

 この時代、狼は強かった。一匹で人を五人は殺す彼らは、自らの体より遥かに大きい熊に対しても果敢に戦った。その短剣のような牙と爪で敵を攻撃するどころか、彼らは群で生きている。狼が五頭も集まれば熊とて力及ばない。そんな彼らを村の人々は恐れつつも、崇め、「|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》」と呼んだ。

 神という存在が彼らに認知される前でありながら、狼に畏れを成す彼らには信仰と似たものが存在していたと言えよう。
 そしてこれはそんな未開の村で起こる一人の少女と一匹の狼の物語だ。



 ルイーズのおてんばぶりは村の男でも手に負えない程であった。食料を獲りに行く狩りに同行したいと言われた時は、未だ齢十歳の彼女を連れて行くにはまだ早い。男の子ですら十二歳で同行を許されると言っても、ルイーズがそんなことを聞くはずもなく、駄々をこねられるので、山で迷子になっても良いならついてきなさいと言った時、彼女は大人の足にぴったりとついてきてしまったのだ。
 鹿という動物を弓で狩るには静かに疾く、洗練された動きが必要であるはずなのだが、それをどこで習得したかルイーズは大人顔負けの行動力で、狩りの同行を達成して見せた。そんな彼女を無碍に出来る訳もなく、大人たちはルイーズの狩りへの同行を許すことになる。
 といっても最初に弓や槍を渡さずに、追跡術を学ばせた。群れとして動く鹿を足跡のずれで、何匹いるか見極める方法や、糞や獣道の形で山をどのようなルートで辿っているかの予測など。もちろん山をある程度知っていた彼女がそれを習得するのは早かったが、それ以上にルイーズは人の能力としては説明できない直感というものに優れていた。
 まず鹿でも兎でも獲物を見つけるには糞や足跡など手掛かりになるものを見つけなければならないが、ルイーズはその一歩目を見つけるのが非常に上手かった。ルイーズは匂いがするだの、色が違うだの、音が聞こえるだの言うのだが、長年狩猟を続ける長ですら、そのルイーズの言葉を理解することはできない。
 しかし確実に見つけてしまうのだ。例えば一日で五匹の獲物が取れたとしたらそのうちの三匹の手掛かりはルイーズが見つけてしまう位には。
 そして十二歳。やっと男の子が狩りに同行が許される時、ルイーズは既に弓と槍を持ち、獲物を撃っていた。



「チッチッチッ」
 舌打ちによる合図でゆっくりと獲物への距離を縮めていく。弓に矢を番えてはいるが、引き絞らず、枯れ草や枯れた枝を踏まないように足元に気を付けながら。共にいるのはルイーズを含めて四人であった。六人一組で狩りにでるが、既に二匹撃っているために、二人は離脱し、今頃獲物の解体作業に勤しんでいるところであろう。

 冬はまだ遠いが、そううかうかもしていられない時期。樹木の葉には茶と緑が混ざり合い、枯れ始めた木もある。落ち葉も増えつつ、次の世代を残すために樹の実を付けた樹木も多い。秋。食料のかき入れ時であった。食料を求め各地を回る獲物を狩るのにも最適な季節。
 夏とは違う森の中でルイーズたちは今朝見つけた獲物を褐色に染まった森で追っていた。

 そして獲物との距離が弓の射程内に入った時、皆弓を番えて鹿を狙った。狙うは左前脚の付け根。心臓の位置だ。心臓から出血させられれば、この山の中でもハッキリと血痕が残り後を追いやすくなるうえ、体力も奪える。直径十数センチの的だが、長年狩猟民族をやってきた彼らが培ってきた技術を以てすれば容易い。
 一矢放たれる。弓の弦が撓んだ音で、獲物はその首を上げ、辺りを警戒する。しかし既に鋭い矢じりのついた矢が心臓の元へと近づいていた。そしてその矢はその勢いを以て獲物の左胸に突き刺さるが、浅い。
 もしこれが鹿であれば、心臓を貫き、息絶えさせていただろうが、幸か不幸か獲物は猪だった。分厚い脂肪層に、毛皮に絡め纏った泥の鎧を持つ猪には石の弓では敵わない。もし貫かせるならもっと近づかなければならないが、猪は鹿と違いこちらに敵意を表す。
 数メートル離れているというのに聞こえてくる荒い鼻息が、戦闘開始の合図に聞こえる。ルイーズは持っていた槍では貧弱過ぎると思い、刃の手前十数センチ、持ち手のみを残し、残りの部分を折って捨ててしまう。
「ワッワッワッ!」
 猪の気が自分に向くように誘導しながら、猪の前へ躍り出る。
 猪は豚の仲間でありながら意外にも危険な動物だ。その突進の勢いたるや、十分骨を折られるほどであるうえ、口元についた牙が思いの外鋭い。これで太ももの血管などをやられてしまえば失血死は免れないだろう。そのうえルイーズはまだ十二歳の子供である。成長しきっていない身体での猪の突進は十分死に足り得る。
 しかし狼は猪を畏れない。

――ギリギリまで、引き絞って!――
 少女の力の持てる限りで引き絞られ、そこから放たれた矢は最高速で猪の眉間を捉えた。勢い余って突っ込んでくる猪を横っ飛びで避けると同時に、槍の先端を左わき腹に突き刺して見せたルイーズの身体能力は言わずもがな。

 悲痛な声を上げて猪はその場に倒れこんでいく。ルイーズは転びながらも猪の走った道を見て驚愕していた。どれほどの脚力であればここまでになるのか。猪が走ったところは落ち葉や枯れ木を押しのけ、土がむき出しになってしまっていた。息を切らしながらそれを見つめていたルイーズは視線の先に何か白いものを捉える。

 それは狼だった。白い大きな狼。凛と立つ耳に、尖った鼻。吸い込まれそうな黄金の瞳。その体躯は鹿や猪より一回りも二回りも大きいだろう。しかし狼はルイーズに対し優しげな表情で、一切牙を剥くことなく静かな眼差しを向けていた。
「ルイーズ!」
 ルイーズが行って見せた狩りに驚き、そのまま起き上がらない彼女を心配した仲間の一人が声を掛ける。
「あ、ああ。ごめんなさい」
「よかった、怪我はないのか」
「うん」
「じゃあどうした? 遠くを見つめて」
 少しの間だった。声を掛けられ仲間に目を向けて、改めて白い狼の存在を思い出すまで五秒もないだろう。その間に狼は姿を消してしまっていた。
「今白い狼が……」
 仲間はルイーズの言葉に噴き出した。
「そんなことあるわけないじゃないか! この森に住むのは灰狼。雪山ならまだしも真っ白だったらすぐ獲物に見つかっちまうだろ?」
「でもほんとにいたんだよ!」
「わかった、わかった。狼のことよりお前が仕留めた獲物のことを気にしろよ」
 そう言われてルイーズは自らが獲った猪が数メートル先で倒れているのを見る。
「百キロは越えているだろうな。大手柄だぞ」
 仲間の青年は笑いながら、ルイーズの頭を雑にわしゃわしゃと撫でる。

 ルイーズの住んでいる村の男児は猪を狩って見習い、狼を狩って一人前として認められる風習があった。崇拝の対象である狼を狩るのにもちゃんとした意味がある。心に決めた一匹をナイフのみで狩る。殺すではなく狩る。そして狩った狼の肉、内臓も脳も目も全て、数日かけて一人で食す。それによって自らの魂に狼を取り入れる。そしてその狩った狼の牙と骨で魔除けとしての首飾りを作り、毛皮で衣服を作る。フードの部分に顔の皮を使い、狼と一体となる。この儀式を通し、男は人狼として|月《ルナ》の加護を手に入れると。

 ルイーズは齢十二歳の少女でありながら狩りの見習いとして認められることになる。それは狩りを好む彼女にとって名誉なことであるはずなのだが、白い狼が脳裏に焼き付いてしまい、それどころではなかった。
「なんだよ。無反応で」
「綺麗だったんだ。雪みたいで。でも目がちゃんと金色だったから白皮症ではないと思うんだけど」
「また狼の話しかよ。もう日が落ちるから今日は帰るぞ」
「ほんとだよ? ほんとにいたの!」
 青年に食って掛かるルイーズだったが、猪を運ぼうとしている他の仲間の「おーい。二人でも大変だから手伝ってくれ!」という声によってその話は打ち切られてしまう。

 ルイーズが猪の元に近づくと、既に首元には切れ込みが入れられており、血抜きの作業は終えているらしい。
「なるべく沢で解体したいから、汚れるかもしれないけど運んじまおう」
「そうだな」
「ああ」
 と三人が言い、ルイーズも猪の足を担いだ。重い、身体だった。



「皆の者よ! 聞け! 今日我らがルイーズが猪を討伐して見せた! 今宵は宴だ! ルイーズを称えよ! 盃を持て! ルイーズに月の加護があらんことを!」
『月の加護があらんことを!』
 人口五十にも満たないこの村では狩りでの位の昇進を村全体で祝った。もちろん子供が多い年であれば十数年後に毎日宴をするなんてこともある。しかし人数が少ないうえに、狩りが得意な民族であるが故に、村人が飢えるなんてことはなかった。男たちは果実を発酵させて作った酒を手に、飲めや歌えやの大騒ぎ。主役であるはずのルイーズは母の元で今日あったことを話していた。
「皆は白い|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》なんてって笑うんだけど、お母さんはどう思う?」
「じゃあ一つ大人になったルイーズに教えてあげる。もう知っている人のが少ない伝説だけど、この山には白狼伝説っていう伝説があるの」
「白狼伝説?」
「うん」

――世の理にて黒の義が息づく時、白き始源が巫女と共に安寧を齎す――

 ルイーズの母は伝説の一節を読み上げた。
「私たちは|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》を崇めているでしょう。だから私たちにとって白き始源は白い狼のこと。巫女っていうのはかつての人が讃えていた何か偉大な存在に仕えた人たちのこと。だから白き始源と巫女っていうのは|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》とルイーズ、あなたってことになるのかもしれないわね」
「仕える? |遥か遠きもの《インデ・ルナエ》に?」
「伝説よ。でも白き始源ってのはその色から清いものっていう例えでもあるから、ルイーズが良い子にしてたらまた会えるかもね」
「ホント!?」
「ほんとよ」
 ルイーズの母は優しく微笑んだ。
「さあ、今日は貴方のための祭りよ。いってらっしゃい」
 母がそう言うとルイーズは猪の肉を焼いている大きな焚火の元へ、嬉しそうに歩いて行った。



 猪の肉や鹿の肉、樹の実などある程度食べて、次の料理に手を伸ばすか、ここでやめておくか悩んでいたところ、突然視界が黒い何かに覆われた。
「なになに!?」
 何かを被せられたことを悟ったルイーズはそれを外し、何かを確認する。その何かは今日ルイーズが狩った猪の頭蓋骨であった。
「それはおぬしのモノだ、ルイーズ。家に飾るなりしておきなさい」
 しわがれた声で言うのはこの村の長だった。今でこそ優しそうなおじいちゃんと言ったところだが、昔は筋骨隆々の凄腕狩人であったらしい。しかし言われてみれば、衰えても尚大きな骨や曲がっていない腰、分厚い手の皮など。納得できる要素は多くある。
 長の周りにはルイーズの友達の少年たちがおり、猪の兜を被せられたルイーズのことを笑い、どこかへ走って行ってしまう。
「おぬし。今日白の|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》を見たと言っていたようだな?」
「はい。この猪を狩った時です。近くではなくとても遠くに、白くておっきな|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》が」
「そうかそうか。白は純粋なもの、穢れ無きものを表す色。恐らく純粋な心で獲物と対峙したぬしの元に、|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》が魅かれてきたのであろう。まだ早いであろうが次ぬしが狩るべきは、一生を共に生きる自分の半身の|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》を見つけ、自らのものにすること。白き始源の元、より一層励むように」
「はい! 長は白き始源を見たことはあるのですか?」
 長は近くにあった椅子を二つこちらによせ、ルイーズに促す。
「ありがとうございます」
「私は白き始源を昔、見たことがある」
「あるんですか!」
「ああ。それこそおぬしくらいの歳だった。まだ弓もうまく扱えず、鹿ですら仲間に助けてもらわねば狩れないくらいの時。初めて手掛かりも自分で見つけ、狩った鹿が女鹿だった。女鹿の割に大きいから良い獲物だと、高なる鼓動を抑え、矢を放った。しかし蓋を開けてみれば、大きいと思ったのは腹に子を宿していたからだった」
 ルイーズはごくりと喉を鳴らす。
「こちらとて食わねばならん。だが、子を宿した鹿を殺したという事実。一度に二つの命を奪ったという事実は若き頃の私にはとても重いことのように思えてな。ぽろぽろと泣きながらその子供を埋葬した時だった。遠くに確かに白い獣がいたのだ。ルイーズは|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》だったんだろう? 私は白い牡鹿だった。大樹の枝のような立派な角を携えた、白い美しい牡鹿。まだ毛も生えていない鹿の子供を抱えながらなんとなく私は、その白い鹿が、この手の中にいる鹿の成長した姿なのではないだろうかと思った。命は巡る。かつてもっと世界に人が栄えた時、人と人は争いを続けていたそうな。そうではない。もっと純粋に動物を食い、その者を身に宿し、自らも別の獣に食われるか、土に還り、木となり、別の獣の食べ物として……。死しても尚、我等だったもの、彼等だったものは細かい細かい砂よりも細かい別のなにかとして、この世界に巡っていく。そんなことを大きな黒き眼が私に訴えていた」
 ルイーズは子供ながらに長の話を静かに聞いていた。後ろでは焚火がぱちぱちと音を鳴らし、森の中からは鳥や虫の声が風に乗って聞こえてくる。
「今日食べた猪も、いつしか食べる狼も全てルイーズとなって、生き続ける。死とは個としての意識がなくなるだけで、言葉にしか過ぎん。命とは永遠で、生きるとはこの地が続く限り続くのだ……」
 難しそうな顔で地面を見つめているルイーズに気付いた長は、笑いながら謝罪をする。
「すまんすまん。歳をとると話が長くなって仕方がない。要するに、白い獣が現れるときはおぬしに何かを伝えようとしているということ、というわけだ」
「何か……。長は何だと思いますか?」
「それは自分で考えること。猪を狩り何を思ったか。|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》を見て何を思ったか。白狼伝説を聞き、何を思ったか。難しい様で簡単なこと。どう取ろうとも自分の自由だ。少なからずルイーズ、ぬしは今日偉業を成し遂げた。難しいことは後にして今日くらいはその偉業を誇り、楽しめ」
 そう言うと長は椅子から立ち上がり、村の男達の元へと歩いていく。

 何か伝えようとしている。伝説の一節の前半、世の理にて黒の義が息づく時、という言葉が気になるルイーズであったが、静かにもう一度あの|遥か遠きもの《インデ・ルナエ》の黄金の眼を思い出した。
 暗黒の宙には、それに似た星が多く瞬いている。

次話


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  • 最終更新:2020-05-21 23:02:16

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