雨が降った日

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前話


本編

 少年は一人だった。
 母は病床に伏し、父は仕事ばかり。父が働き、稼いできた金は、いつも一定額机の上に置かれた。
 それは、食事は自分でどうにかしろという父からの無言のメッセージだと気付いたのは、まだ十にもならない時だった。
 母はベッドから起き上がることは出来ず、少年は一人その金を持ち、街へと出た。
 なぜこんな街で子を産んでしまったのかと、両親は嘆いたが、もちろん子供であった少年は知る由もない。それこそマフィアに溢れた街で、母は病気、父の稼ぎも少ないと考えれば、子供の教育に金が行き届かないのは当然だ。
 しかし貧乏な暮らしであっても、母が、自らの作ったものを美味しそうに食べてくれる姿で充分であった。
 今思えば、それこそが母の優しさであったと少年は思う。

 なぜなら友に一度料理を振舞った時、「君は料理が下手だなぁ」と笑われ、母が自分のために笑っていたことに気づいた。

無知というのは恐ろしい。自分がどういう街にいるのか。父が何の仕事をしているのか。母はなぜこの街で産んだことを謝罪するのか。少年にとって、この街が全てで、世界はこの小さな街だった。
 だからこそ彼にとって、この街が他に比べて、悪い環境だとは思えないし、この街に居続けることで焦燥していく両親を理解できない。
 それがどれだけ愚かなことか。血の臭いと、硝煙の香りが当たり前のこの街が、どれだけ狂っているか。
 わからない彼はもうこの時から|幹部《カポ・レジーム》という座を約束されていたのかもしれない。
 彼が血に染まった道を歩くことは運命だったのかもしれない。

 そうこれから語るは、彼が|幹部《カポ・レジーム》へ昇り詰めるまでの物語だ。



 雨は降っていなかった。レイニーブルーには面白い逸話がある。それは。

「物語が始まると雨が降る」

 基本的には何十年も降り続けるこの街の雨だが、稀にその雲の切れ目から太陽が顔を出し、その雨の足を止めるということがあった。
 文や物語に学のない者たちが多いこの街で誰がそんなことを言い始めたかはわからないが、その数十年に一度の晴れの日には必ず、歴史に名を残すべき人物が死ぬと。
 そして次の日には新たに雨が降り始め、街が誰かの物語を選択する。しかしブルーノが幼き頃は、その逸話から外れ、長い間晴れの日が続いていた。

 ブルーノは街で買ってきたバケットと、卵を紙袋から取り出し、台所へと持っていく。身長が足りないため、踏み台の上に乗り、水で手を洗う。そして壁にかかっているフライパンを手に取り、ガスコンロに火をつけた。
少量の油を引き、さらさらになったら卵を落とす。ぱちぱちと音を鳴らしながら白身の部分が一気に固まり始めるが、ブルーノは黄身がぱさぱさな状態が好きなため、火を弱め、全体に火が通るのを待った。
 その間にバケットを焼くことで、目玉焼きができるまでの時間を紛らわす。
 母はほとんど食事を摂らなかった。
 ブルーノは食事を摂った方が良いということは知っていたが、母にいらないと言われてしまえば、もうどうすることもできない。
 だから基本的には、自分の食事のみを用意することが多かった。

 食事を終えれば、外に遊びに行く。遊び相手はもちろんカルロで、ボロボロになったサッカーボールを二人でけり合いながら遊んだ。
 お腹が空けば、また家に戻ってきて食事を摂り、そして外へ遊びに行く。
 日が落ちる頃に戻ってきて、母の病状を心配しながら眠りにつく。ブルーノはそんな毎日を送っていた。
 しかし日常というのは、普通で当然のように見えて、何かが一つ欠けただけで、立ち直れないほど、悉く崩れ去る。
 ブルーノの日常も簡単だった。

 父が息を切らし帰ってきたその日の夜、終わりが始まる。まだ雨は降っていなかった。

 普段通り、カルロとの遊びに疲れたブルーノは夕飯を食べた後に、寝支度をしていたところ家の扉が勢いよく開かれた。
 ブルーノも母も驚き、身体を起こし、扉の方を見つめる。そこには慌てて鍵を閉めている父がいた。
 額にはたっぷりと汗を溜め、息も絶え絶えだ。

「あなた、そんなに慌ててどうしたの?」

 普段父は、母がベッドから立ち上がると、自らの身体をちゃんと労われと怒鳴る。しかし今は違った。
 大きな声で、「荷物をまとめろ!」と母に命じたのだ。

「あなた、その腕……」

 もう白とは言えない黄ばんだシャツに着いた赤い斑点を見て、母はそう漏らした。

「説明は後だ! 早くしろ!」

 笑顔ではないにしても、父がここまで激しい表情をしたことはなかった。眉間にはペンで書いたと見紛うほどに深くしわが入り、汗は滝のように流れる。
 視線の低いブルーノは、父の腕から流れ落ちる鮮血と、点々と歩いたところに落ちた血の跡をしっかりと確認していた。
 しかし幼いブルーノにとってそれがどんな異常事態かわからない。
 だとしても普段ベッドから離れない母は、その体を引きずりながら、焦ったようにしているし、父に至っては戸棚から拳銃を取り出している。
 普段からは想像もつかない様子の二人に、途轍もない恐怖を感じ、部屋の隅で震えることしかできない。

 その時だった。遠くから巨大な破裂音が辺りに響き渡った。当時のブルーノにはわからなかったが、今ならわかる。
 銃声だ。
 
 近くで落雷が起きたような、耳を劈く衝撃音は両親の肩を大きく震わせた。直後、父は舌打ちをし、窓から少し身を乗り出すような形で外の様子を伺う。その手に握られている拳銃のセーフティは既に解除されており、引き金に指すらもかけている。
 母は父のことを心配しながらも、ブルーノを奥に行ってなさいと命じた。
 しかし何が何だかわからないブルーノは、その言葉を受け入れようとはせず、母の服の裾を掴んだまま離れようとしない。

 その時だった。同じような破裂音と同時に、父が覗いていた窓ガラスが悉く砕け散る。窓の近くにいた父は、その破片をもろに浴び、いくらか切り傷を負ってしまう。

「アルティの野郎!」

 窓から手のみを出した状態で、三回父は引き金を引いた。家の中で反響する銃声は、鼓膜を針で突かれたような痛みをもたらすが、ブルーノはなぜか冷静だった。
 いやわからないから、茫然としているだけか。
 普段は雷に驚くようなブルーノも、五発の銃声には一切怯まず、まじまじと窓の先を見据えていた。

「お前ら奥に隠れて、絶対に出てくるなよ」

 重く静かな、怒りに燃えた声だった。母は、ブルーノに聞こえるほどに大きく唾を飲み込み、奥の部屋へとブルーノの腕を引っ張りながら歩いていく。
 そのまま母はブルーノをベッドの下に押し込み、自らは台所に置いていた包丁を手に、部屋の影が差しているところに控えた。
 埃っぽいし、かび臭い。
 ベッドの下なんて普段は汚れるからという理由で、潜り込むと怒られるが、今は進んで入れと言われ、ブルーノはその状況に少しワクワクしていた。
 しかし意外とつまらないもので、周りも足しか見えないため、何か面白いものが見られるというわけでもない。
 そこでちょっと辺りを見回してみると、僅かな光を集めて鈍色に光る何かを見つけた。

 それは五寸釘だった。
 なぜそれがこんなところに転がっているかはわからないが、家具などを直す時に使っていたものが、ベッドの下に転がり込んだとかだろう。ブルーノはそれを手に取り、床にがりがりと何かを書き始める。
 幼い彼の手では十五センチほどの釘だとしても持つには十分で、拳を握っても五、六センチは手からはみ出していた。

 床に歪んだ笑顔のマークが書きあがった程度の時だった。二発の銃声が鳴った後に、強く扉が開かれる。
 どういう状況か、ベッドの下にいるブルーノからは判断できないが、明らかな破砕音が響いたということは、木の扉は開けた拍子に壊されたのだろう。
 そして直後に父の怒鳴り声が聞こえたかと思えば、数発の銃声が響き渡った。立て続けに鳴らされたそれは、先ほどまでのように数えることは出来ない。
 どさっと重い何かが地面に落ちる音と同時に、母の奇声が聞こえるが、その声は数回の銃声と共に聞こえなくなった。

「おい、ガキがいるはずだろ。探せ」

 その声でブルーノは自分が、家に押し入ってきた者たちに探されているということに気付くが、それよりも自らが描いた笑顔のマークが黒い液体によって消されてしまったことの悲しさの方が大きかった。
 幸か不幸か、ベッドの下という暗さが故に、赤黒い血液は、黒く見え、ブルーノにそれが母の血だとはわからない。

「あぁ。にこちゃんマーク……」

 その瞬間足首を誰かに掴まれ、そのまま外へ引きずり出された。自らの脚を掴んだ手の力強さと、引きずる荒っぽさから明らかにブルーノの命を何とも思っていないことはわかる。
 しかしブルーノを囲む男たちは、父も母も殺されたブルーノが泣きもせず、この状況で、自らをベッドの下から引きずり出した男の顔を無表情で見つめ続けることにある種の恐れを抱き、それを隠すように、ブルーノの額に銃口を押し当てた。

「気味の悪いガキだ」

 そう言った瞬間だった。ブルーノに銃口を向けた男は自らの脚の付け根を抑えながら、膝をついた。
 抑えている部分からは明らかに大量の血液が流れ出ている。そしてブルーノは、血の付いた五寸釘を思い切り男の喉元へ突き立てた。
 拳銃で頭を撃たれれば、死ぬということは幼いブルーノすらもわかっている。
 それと同時に、この男が死ねば、この突きつけられている拳銃では死なないと、一瞬でも長く生きながらえることが出来ると理解した。
 だから手に持っていた五寸釘を男の脚の付け根に突き刺した。別にそこに太い血管が通っていることを知っていたわけではない。
 幼いブルーノにとって、そこが狙いやすい位置だったという偶然に過ぎなかった。しかしその確実な二撃は、男から命を奪い、周囲の男たちへ圧倒的な恐怖を植え付ける。

 ブルーノの行動に驚き、銃を構える男たちを、一歩後ろから引いて見ていた男が止めた。

「やめろ。殺すな」

 大地を震わせることが出来そうなほどに重く低い声は、酒で灼けている。しかし静まり返った空気を貫くその声の深くには確かにゆったりとした温かさがあり、でもやはり針のような鋭さも感じる。その命令らしき言葉にすぐ反応できた者はいない。
 何よりも大人の男一人を的確に殺して見せた少年を前にして、銃というアドバンテージを捨てることが出来なかった。
 もう既にこの場にいる男たちはほとんど、ブルーノに呑まれている。怒りも悲しみも露にせずただ血に塗れた釘を持つ少年の無表情と深い黒の瞳に、どんどんと沈められていく。

「それは危ないから渡してくれるか?」

 周りの男たちに命令をした初老の男性は、その髭を蓄えた口元から優しく呟いた。

「これを渡したら殺さない?」

 幼い声でブルーノは呟く。

「ああ、殺さない」

 そして初老の男性はブルーノから釘を受け取り、それを持ったまま、家を出ていく。

「そいつを|家《カーザ》へ運べ。育てろ」
「ですが、ドン……」
「|今は《・・》……殺すな」
「はい」

 ドンと呼ばれた男は被っていた帽子に当たった何かに気付く。

「レイニーブルーが次の物語を選んだ……」

 この日長らく晴れていた空は曇天に染まり、ブルーノの代わりにその涙を流した。

次話


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  • 最終更新:2020-05-23 13:23:05

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